小西行長 (こにし ゆきなが) 1558 − 1600

                 商人から船奉行へ、そして大名へ転進  
   
行長は1558年に堺(京都説も)で生誕した。商人時代の名前は魚
屋弥九朗である。泉州堺の商人・小西隆佐の娘を娶った。義父・隆佐
は早くから秀吉の天性の手腕と行動力に目を付け、将来の天下人と想
定し妻ともども奉公していた。養父の命令もあり、備前国岡山の商家
「油屋」に養子に出されて油屋弥九郎と称した。洗礼名・アウグステ
ィヌスで有った。

当時の情勢は、天下布武を掲げた信長が西国の大大名・毛利討伐に乗
り出した時期である。その先陣として信長の重臣と成っていた秀吉が
中国地方征伐の司令官として活躍していた頃である。
行長は義父の命もあり、秀吉の為、軍事面で無く、商い面での諜略を
進める指名を背負っていた。
 
油屋は備前岡山・宇喜多家の御用商人で有ったので、行長も棟梁・直
家と面会を許させていた。信長勢力が中国地方に進出してきた際、直
               家は毛利氏から離れて信長に帰順することを決断したが、その使者に
弥九郎が選ばれたのである。弥九郎は秀吉に面会・交渉に成功したならば武士に取り立てるという条件
で引き受けた。この頃、父・隆佐は秀吉の側近として活躍していたので、交渉はスムーズに行われた。
見事役目を果たした弥九郎は宇喜多家家臣と成り、秀吉の人質となった直家の嫡男・秀家の介添えに任
じられた。名も小西行長とし、商人から武将に転身した。商人という事で行長は秀吉によって貨物船の
運行監督にあたる「舟奉行」に任じられた。又、同じ頃高山右近及び、義父の影響でキリスト教徒と成
っている。本能寺の変直前の備中高松城水攻めの際、行長は宇喜多家の大将として水軍を率いて活躍し、
行長は秀吉の直臣へと転じて、瀬戸内海の船舶管理を行い、莫大な利益を齎した。紀州征伐では水軍を
率いて従軍し、その戦功によって従五位下摂津守に叙された。その頃、義父・隆佐は秀吉によって堺の
代官に任じられていたが、やがて河内・和泉の蔵入地(秀吉直轄領)の代官を兼ねるように成っていた。
この事は、隆佐・行長親子が瀬戸内海の航海・交易を完全に掌握していたことを表しており、秀吉から
絶対なる信頼を受けていた事が解る キリスト教に帰依していた行長は、キリシタン追放令を受けた高
山右近やオルガンティノ神父などを保護したり、九州征伐の際に大村・有馬氏などのキリシタン大名の
軍勢を率いるなど、キリシタンの保護者としても名を残した。九州征伐後の行長は博多商人との交流を
深めたり、博多の復興に携わるなど、秀吉政権の交易担当者として忙しく活動していた。やがて肥後国
主の佐々成正が統治に失敗して国人一揆を招くと、行長はその鎮圧軍に加わった。そして1588年、
行長は肥後国内に24万石(宇土郡・益城郡・八代郡)を与えられて宇土城を築いて本拠とした。肥後
国では他に飽田・託麻・阿蘇・菊地・合志・玉名・山鹿・山本の各郡が加藤清正に与えられ(25万石)、
球磨郡が相良氏、天草郡が「天草五人衆」の統治となった。

天草五人衆とキリスト教

小西行長が入場した宇土城は、元来豪族名和氏の居城であった。その城は石垣も瓦も無
く、堀も空堀であったという。行長は入国翌年から新・宇土城の築城に着手した。その
際、天草を支配する豪族達すなわち大矢野・栖本・上津浦・志岐・天草の5氏(天草五
人衆)にも普請を要求したのであった。普請を要求するということは、すなわち行長が
天草五人衆を傘下に置いていたと見なしていたことになる。しかし、天草五人衆は普請
を拒否したのであった。行長は清正の軍勢と共に天草へ侵攻して、制圧することに成功
した。
これによって天草郡は行長の直接統治下に置かれることになった。行長は先に臣従させ
た佐々成正の旧臣や地元の豪族らに加えて、天草五人衆の大方をも家臣団に組み入れる
ことに成功したのである。それによって行長の水軍は益々強化されたのであった。また
忘れてはならないのは、キリスト教の伝播であろう。宇土だけでなく、矢部・隈庄・八
代などの城下にて城主自らが率先して布教活動を行い、多くの民を改宗させたのであっ
た。そして最も布教活動が盛んだったのが天草である。天草には「天草学林」というキ
リスト教の大学が置かれ、宣教師の教育や教会の元締めとしての役割を果たしていた。
『平家物語』や『伊曽保物語』など8種類の書物をローマ字に訳した、いわゆる「天草
本」も天草学林で出版されたものである。行長は宇土城の築城と共に城下町の整備も急
速に進めていった。入国2、3年ほどで、それらは完成したと推定されている。

1592年に始まった朝鮮出兵において行長は対馬の宗義智・平戸の松浦鎮信・大村の大村喜前らを率
いて第一軍の先鋒に立った。元々行長は女婿の宗義智と共に朝鮮との折衝を行っていたのだが、それが
決裂した為、出兵が始まったのである。第一軍は4月に釜山を陥してから次々と進軍して、5月にはソ
ウルを占領した。その後も行長は平壌を占領するなど、秀吉から大いに戦功を賞賛されたのである。し
かし、行長の目的はこの戦争を早期に終結される事だったのである。行長は平壌占領及びその後の明軍
撃退を期に、停戦交渉に乗り出した。9月に一旦停戦で合意したものの、明軍の協定破りによって行長
軍はソウルへと退却した。翌年4月から再び停戦交渉が再開されて、やがて日明両軍の撤退などで合意
した。さて、この時に日明双方が提示した講和条件はお互いに、到底受け入れられるものではなかった。
その為、行長は明に派遣した内藤如安(行長の重臣)に秀吉の出した条件とは全く違う講和条件を提示
するように指示したのであった。逆に明から提示された講和条件も一応合意しておいて、秀吉には伏せ
ておく事にした。
   

    
行長は元より商人であり、武功より折衝が得意な武将で有った。又、キリストに帰依して
   いたから、殺生は好まない人格者でも有った。早く朝鮮出兵を終わらせる事がお互いの利
   益と考えたのは納得できる。講和条件の偽りも、どうしようもない状況での判断と思う。
   残念なのは、行長の味方が少なかった事である。



1596年9月、明の正使が秀吉に謁見した。その場で日明講和の儀は終了はずだったが、明使の口上
を聞いた秀吉は激怒して使者を追い返してしまったのである。行長が秀吉を騙してまで行った和議はあ
っさり崩壊し、再出兵と成った。行長は本来ならば一家虐殺の罪であったが、なんとか許された。が、
秀吉の厚い信頼を失ってしまったのは間違いないであろう。さて、再出兵での日本軍そして行長は苦戦
を続けた。秀吉の死を期に日本軍は完全撤退をするのだが、行長は明軍の追撃を受けて命からがら脱出
したのだった。行長は朝鮮出兵中、一貫して和平工作に務めていた。その理由について、行長にはある
計画があったという。それは行長が和平実現後、その実績を背景に対朝鮮外交・貿易権を完全に掌握す
るというものであった。加藤清正らは領土的野心に燃えて戦っていたのに対し、行長は別の野心に燃え
て別の戦いをしていたのであった。
秀吉死後の政権争いの中、行長は石田三成と行動を共にした。そして、関ヶ原の戦いで破れた行長は三
成・安国時とともに処刑され、戦国大名小西家は行長一代で滅亡したのであった。行長は自害しなかっ
たのはキリシタンの教えからである。小西家旧臣そして行長に庇護されたキリシタンたちは島原の乱に
て最期の輝きを放ったのである。

     
この秀吉の朝鮮出兵ほど無駄な戦は無いと思う。数万人が死傷し、得る物は無かった。
     日本の侵略戦争の草分けとも言える。400年以上経った現代、日本は豊かに成り、
     世界有数の国と成ったが、今でも東南アジアの諸国が反日行動を起こすのは、勿論、
     日清戦争等と思うが、歴史を遡れば、戦国時代の朝鮮出兵も原因の一つであろう。


                                         







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